ミソフォニアは、甘えや独善的なワガママに過ぎない?【違うけれど両方ある】元・当事者による考察

ミソフォニアの特徴的な不快感を体験していない人からは「甘えているだけでは?」という意見も聞こえてきます。
世の中の大半の人たちは、何かしらの不満をやり過ごしながら生きているはずなので、そう考えるのも無理はありません。
では実際、ミソフォニア当事者は根性なしで、音に対する細かい文句を言っているだけなのでしょうか?
「人による」「本人の価値観による」「混乱している」が答えです。
ミソフォニア当事者と、ミソフォニアの感覚がない人、両方の視点から理由を解説します。
非ミソフォニアの人から見て「甘え」だと映ることは?
ミソフォニアの人は、嫌いな音(気になる音)がするたびに逐一反応するので、音を指摘された相手は「なんでそんなに気にするの?」と考えます。
また、当事者は誰に迷惑がかかる訳でもないシーンで出た音も嫌がるので、非ミソフォニアの人は自分の自然な行動にケチを付けられた感覚になり、「イラつくのはこっちだよ!」と思うでしょう。
非ミソフォニアの人には、特定の音で抱く心理的ストレスの重さが具体的にイメージできないので、「個人的な好き嫌いを押し付けられた」と捉えられても、無理はありません。
一般的に、自分の好き嫌いを一方的に押し付ける人は「ワガママな人」とみなされます。
「音を出すのをやめてほしい理由」がいまいちピンとこない相手からすると「全然フェアじゃないし、子供の文句みたいだ。単なる甘えだろ?」と思われてしまうわけです。
ミソフォニア当事者にある「甘え」の要素とは?
ミソフォニア当事者に限った話ではありませんが、自立の柱が弱い人は、他力に依存する度合いが強くなります。
ここで言う「自立」とは、精神的自立のことです。
「甘えていない」ミソフォニア当事者のケース
なにか嫌なことがあった時、まず「自分に原因がなかったか?」を考える人は精神的な自立を成していて、自分の嫌なところと向き合う覚悟ができています。
これは「甘えていない」とみなして良いでしょう。
「甘えた部分がある」ミソフォニア当事者のケース
反対に「相手が悪い、環境のせいだ」を先に考える人は客観的な事実から目を背け、ネガティブな思い込みを抱きやすくなります。
また、嫌な音を「出されている」といった認識にも傾くので、被害者意識が強まりやすいです。
被害者意識を強めると「嫌な音から逃げよう」としか考えられなくなり、周囲からは「自分さえ良ければいい人」という誤解を招く可能性もあります。
「音を出す相手」に対する想像力も足りていないので、これは「甘えがある」と言えるのではないでしょうか。
「混乱に陥っている」ミソフォニア当事者のケース
- 音を気にしたくないけど、気になる
- 説明した後のことを考えると、言えない
- 自力で何とかしたいけど、どうすればいいのか分からない
このケースの人が、これまで相談を受けた人の中では割合が多かったと思います。
②の時に、何を考えるかが人によってかなりの違いがあり、そこが「価値観による」と思うんです。
- 「自分が今よりも楽をできるように立ち回ろう」と考える
- 辛い中でも「カミングアウトされた相手はどう思う?」を考える
どちらを考えるのかで、その後協力してもらえるのか、面倒がられるのかがまったく変わると思います。
まとめ
- 非ミソフォニアの人は「お互い様」で済まない理由が分からないので、音への文句は「甘え」だとみなされる
- 激しい感情に耐えながら、自力でなんとかしようと努力している当事者は、むしろ忍耐力のかたまり
- 精神的自立が進んでいない当事者には、他者依存の甘えた考えも残っている
- 無限ループに陥った当事者は、自分の性格や好き嫌いと問題を混ぜこぜにして、混乱している
どの立場であっても、ミソフォニア問題で揉めないためには、自分と違う立場の人のことを想像できる自分でいる努力は、やはり必要かもしれません。
お互いに納得の得られない押しつけも、禁物ですよ。